蒲刈島(現下蒲刈町)は江戸時代、瀬戸内海の交通の要衝として公式の海駅に指定され、本陣と番所が設けられていました。 番所は、蒲刈島繋船奉行のもとに船・船頭・水主(かこ)を常備し、公用物資の輸送・曳船(ひきぶね)・漕船(こぎぶね)、抜荷(ぬきに)改めや海上警固にもあたっていました。番所には弓と鉄砲を置き、屋前向って左に高札場、右手には道具立てがあり、突棒・ガリ棒(袖搦み)・サス棒(刺又)の三道具と消火用水桶が備えられていたといわれています。 浅野藩蒲刈島番所は残っていませんが、現存していた毛利藩(山口県上関町)の番所を調査し、建築当初の形を復元したもので、17世紀の中頃の特徴を有しています。